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橋本努の音楽エッセイ 第13回「スピリチュアルなコーラスとジャズの比類なき融合」

雑誌Actio 20107月号、23

 


 90年代の初頭に発行されていたフリーの音楽情報誌に、『Suburbia Suite(サバービア・スウィート)』(橋本徹編集)がある。現在、書籍化されて読めるが、そこで紹介された1,600枚のアルバムのなかから、これまでたくさんのコンピレーション・アルバムが生まれてきた。例えば「アプレ・ミディ」のCDシリーズは、どれもおしゃれなテーマでまとめた好企画。サバービアとは、郊外の生活をちょっと軽蔑的に表した言葉で、例えばショッピング・モールにあるおしゃれなカフェの、昼下がりの淀んだ感じが似合う音楽である。

 だが、そんなコンセプトとはちょっと異質な企画に、ユニバーサル・ミュージックが2006年にリリースした30タイトルのアルバムがある。こだわりのある逸品ばかりで、最近私は、そのなかからメアリー・ルー・ウィリアムス(ピアノ)の『アンデスの黒いキリスト(Black Christ of the andes)(UCCU3065)を聴いた。これが傑作なのだ。ミュージシャンたちは、自らの魂を「永遠の真実」へと結びつけることに成功したのではないか。いまから約50年前の、1962年から63年にかけて録音されたアルバムだが、録音状態もよく、旋律は単純ながら深遠で、洗練された趣味をうかがわせる。作品としての完成度が高く、時を越えて結晶化されている。

 1910年にアトランタ州で生まれたメアリーは、若い頃からピアノと作曲・編曲の才能を示し、ニューヨークのハーレムに移ってからは、ビバップと呼ばれるジャズの新しいシーンの一端を担った。47歳にしてローマ・カトリックの洗礼を受けると、その後は宗教音楽にも貢献している。このアルバムでは、スピリチュアルなコーラスとジャズを融合させて、独自の世界観を打ち立てるが、50代にして到達した新境地であろう。

 タイトルにある「アンデスの黒いキリスト」とは、1579年にペルーのリマで生まれた聖マルチノ・デ・ポレスのこと。母親はリマ出身のアフリカ系女性、父親はスペイン西部出身の軍人で、父は幼少の頃に程なくして逃亡したため、マルチノは貧しい生活を余儀なくされた。だが彼は、洗礼を受け、貧しい人たちに奉仕して、ペストなどの病人や身寄りのない子どもたち、あるいはアフリカから連れてこられた奴隷たちの世話をした。すると多くの寄付が集まり、貧しい子どもたちのために学校を建てることもできたという。その当時、霊的同伴者として慕われた聖者である。

 そんなマルチノに捧げられた一曲目は、荘厳な静けさのなかでコーラスとジャズ・ピアノが融合する絶妙な作品。時代はちょうど、キング牧師が「私には夢がある」という有名な演説をした頃で、黒人たちはキリスト教を通じて自らの精神をかぎりなく高めていた。熱気に満ちた宗教運動が背景としてあり、一曲目は比較を絶するほど崇高な次元に達している。このほか、巨匠ガーシュインが、黒人キャストのミュージカルのために提供した「イット・エイント・ネセサリリー・ソー」は、時代を超えるワルツ・ジャズの絶品で、深く心に刻まれる旋律だ。

 このアルバムは当時、とくにフランスで高く評価され、「ジャズ・ディスク賞」「ジャズ・ディスク・アカデミー賞」のグランプリに輝いてもいる。自由解放の表現とは、まさにかくあるべし。魂の橋頭堡なのである。